代行サマー(1)
というわけで1991年の池田の思い出話などを
はじめてみますが、当時俺は北海道の岩見沢という
渋い町にいました。確か俺がいた頃だったか
東京に引っ越した直後くらいに駒大岩見沢が
ベスト4に入るんですが、
同じ敷地内にかつては駒沢大学の
北海道教養部というのがあって、そこのさわやか学生として
テニスと恋に夢中だったのです
(すいませんテニスと以後は今回もでっちあげです)。
で、まったく無関係なんですが
駒大岩見沢の思い出話から入ります。
駒大自体が「家庭教師募集(ただし駒大生お断り)」と
言うカンジの地元では嫌われぶりだったのですが、アホだし、
駒大岩見沢はもっとアホ……
あいや、そんなことはないです。
特に野球部は地元の誇りでした。「ヒグマ打線」。
当時「キッチン緑ヶ丘」っていったか
大学のすぐ前のキッチンげなところに
岩駒の野球部員がよく立ち寄ってたんですが
全然ガラが悪かったりもせず
普通に感じの良いスポーツマンだったと思います。
ただもちろん「一見は真ならず」と言いますから
俺がちょろっと見ただけで駒大岩見沢の連中はみんな
いいひと、とかほざく気はないですが。
ちなみに巨人にいったさとう投手とか
見たことがあります。
センバツベスト4時の控え投手ですね。
エースは羽沢投手というサウスポーでした。
駒大岩見沢は85年春に2回戦で池田と対戦
結構甲子園にはよく出てる学校ですが
なんかむやみに春ばっかり、
という印象がありますね。
自分としては最近の駒大苫小牧の活躍は
元道民として嬉しかったりもするんですが
あれが駒大岩見沢だったら
思い入れも違うんだけどなあ……という
気持ちがないでもありません。
苫小牧はフェリーターミナルまで
結構歩いたのと道がだだっぴろかったのと、
映画見に行ったら客が俺しか
いなかったくらいしか記憶がありません。
で。
駒大岩見沢の監督を70年代ごろ?
に一瞬つとめていたのが
その後徳島商監督を経て小松島西の監督となる
宮沢武志氏だそうです。現在は鴨商の部長さんだったかな?
82年の秋、のちに最強チームといわれたりいわれなかったりだった
水野時代の池田と県大会決勝で0-1の好試合を演じた
のが、この宮沢監督の小松島西でした。
池田・徳商よりはやや落ちる素材で
(内野手出身のエースが結構多かった)
着実に県内ランクを上げ
88年春に甲子園初出場。
翌89年には春夏連続甲子園出場を達成します。
90年には一息入りますが、秋の新チームは
この小松島西にとうとう集まった、池田・徳商以上の
好素材が最高学年を迎えたことで注目されくさりました。
中学時代「水野2世」とうたわれた早川浩史投手、
のち日ハム入りする根本隆輝選手の3,4番は
特に強力で、県野球界はこの小松島西を
中心に展開されることが予想されてました……
つづく
関連記事